梨の実通信


五十嵐きよみの短歌ブログ。 ぼちぼちいってみたいと思います
by noma-iga
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短歌とインターネットの関わりについて

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1000年以上の長い歴史をもつ短歌に対して、インターネットが誕生したのは20世紀後半、一般に普及するようになったのはこの10年ほどのことである。しかし今、インターネットを通して短歌に親しむ人が増え、短歌総合誌などでもインターネットが話題にのぼることが多くなっている。今から7年前、短歌とインターネットをほぼ同時に始めた者として、短歌とインターネットの関わりについて書いてみたい。




私にとって、短歌とインターネットは切り離せない関係にある。「明日香」に入会したのも、インターネットを通してのことだった。使い方を覚えたばかりのパソコンで、短歌のサイトをめぐり歩くうちに、たまたま「明日香」のホームページに出会ったのがきっかけだった。その後も、「明日香」の一会員であると同時に、インターネットでの活動も続けている。ネット歌会を主催したり(現在は休止中)、題詠マラソンというイベントを開催したり、歌集や催し物の情報を集めたりと、短歌に関してインターネットの利用度はかなり高い。

インターネット上で短歌に親しむ者は、私のように歌歴があまり長くなく、ネットを通して短歌を始めた者が多いというイメージがあるかもしれない。さらにいえば、結社に入らず、短歌の伝統などといったこととは無縁に、インターネットの中だけで気軽に短歌を楽しんでいるというイメージが流布しているように思える。

しかし、これは正しくない。今年1月、インターネット上で短歌を関わる者を対象にアンケート調査を行ったところ、有効回答数100の時点で、結社に所属している者はちょうど半分の50%を占めた。また、歌歴2年以内の者が30%だったのに対して、歌歴10年以上の者も23%にのぼった。さらに、歌集を刊行したことのある者が17%、結社誌の編集にたずさわる者が10%いるなど、インターネット以外でも短歌に深く関わる者は少なくない。この事実は、インターネットを利用しない人たちにぜひとも知ってほしいことだ。

          (2)

インターネットで短歌の活動をしていて実感するのは、当然といえば当然のことながら、インターネットの利用にはメリットとデメリットがあるということだ。どちらも、インターネットそのものの特性と深く関係しているように思う。ネット歌会と題詠マラソンというインターネット上での体験を例にしながら、具体的に見ていきたい。

ネット歌会は、通常の歌会をインターネットに持ち込んだもので、通常の歌会とほぼ同じように開催できる。大きく分けて2つのタイプがあり、ひとつは閉じられた場で、たとえば結社の会員だけに参加者を限定して行われているような歌会、もうひとつはオープンな場で開催し、誰でも自由に参加できるタイプの歌会だ。ここではオープンな場での歌会に絞って述べる。

ネット歌会のメリットは、なんといっても、時間に縛られずに参加できることが大きい。自分のことを例にすると、「明日香」東京支部の歌会が平日昼間に開催されるため、時間の都合でまったく出席できず、休日や帰宅後の余暇を利用して参加できるネット歌会の存在は実にありがたかった。

また、時間と同時に、場所に縛られないというのもインターネットならではのメリットだろう。場所というのは、パソコンの使える場所なら自宅以外からでもアクセスできるというより(そういう利用の仕方もあるにはあるだろう)、特定の地域ではなく、全国各地からの参加が可能だということだ。私の開いていた歌会では、北海道から宮崎まで、ときには海外からの参加もあった。普通なら一堂に会することが難しく、そもそも知り合うことさえなかったに違いない顔ぶれが、インターネットなら何の問題もなく1ヵ所に集まれる。このような人と人との出会い方は、インターネットの醍醐味といえるだろう。

つまり、ネット歌会は勉強の場であると同時に、出会いの場としても機能しているわけだ。短歌という共通点によって見知らぬ者同士が出会い、歌をめぐって議論することを通して、信頼関係を深めてゆく。その結果、とかく無秩序になりがちなインターネット上に、一定の秩序が保たれた空間を創出している。匿名で活動できるのをいいことに、他人を不快にさせる言動も少なくないインターネットにおいて、これは特筆しておいてもいいことだろう。

一方、デメリットについても見ていきたい。2年半にわたり、ネット歌会を開いてきた経験から感じるのは、次のようなことだ。

誰でも自由に参加できるネット歌会は、何回か経つと、参加者の顔ぶれがかなり入れ替わる。これは常に新しい出会いを生み、新鮮さが保たれるというメリットでもあるが、逆の見方をすると、参加者が流動的であるために、ひとつの歌会として知識が蓄積されていかないというデメリットにもつながる。

たとえば、手さぐりの状態で歌会を開いていた初期の頃、しばしば問題になったのが、一首からどこまでも空想を広げるような歌の読み方だ。確かに、自分で歌集を読んでいるときなどは、そういう読み方をすることは覚えがあるのだが、歌会での評がこういったものばかりになると、歌会が空想合戦のような様相を呈してしまう。そこで、とにかく歌の字句を忠実に読み、31文字からどこまでの情報が読み取れるのか、作者が伝えたいと思っているのであろう情報がきちんと伝わっているか、それを議論するという方向で歌会を運営していった。

しかし、回を重ね、そうした了解事項ができていた参加者がいなくなって、新しい参加者が多くなると、再び同じことが問題として浮上する。そうすると、また前の時点に戻って、歌会の方針を確認するところからやり直さなければならない。顔ぶれが変化して新鮮であるはずが、一方では同じことの繰り返しを生み、私事ながら、歌会を開く楽しみがストレスに転じるという面もあった。

もうひとつ、ネット歌会の問題ではないかと思うのは、「教える」という行為が不在であることだ。「塔」の主宰である永田和宏氏がかつて、結社の役割のひとつとして「読みを教える場」であることを挙げていた。角川書店「短歌年鑑」1999年版の文章「結社のこと、読みのこと」において、「読みの多様性と普遍性を体験というかたちで教えるのが、結社という場であり、その存在意義である」と述べている。ネット歌会では、この「教える」という行為が成り立ちにくい。参加者同士で互いに「教えられる」ことはあるにしても、それは永田のいうところの「教える」とはまた別のものだろう。

「教える」行為が欠けている場では、十人いれば十通りの意見があり、十人のいうことがすべて正しいという事態も生じてしまう。そのため、歌の読み、特に文法的な解釈をめぐって何らかの争点が生じたとき、誰が正しいともつかない状態(誰のいうことも正しい状態)に陥ってしまうのだ。

むろん、歌の読み方は一通りではなく、誰の読みが正しいと決められるものではないだろうが、文法があやふやであるために読みがぶれてしまった場合には、その点をただす必要があるはずだ。ところが、「教える」行為が欠けている場では、「こうしたほうが伝わりやすくなるのではないか」という指摘があったとしても、それに対する反対意見が出されると、誰の意見が正しい(あるいはより適切か)とも決められなくなってしまいやすいのだ。こうした場面に立ち会ったとき、結社の歌会のように指導的立場からの「教える」行為があれば、歌会がもっと有効に機能するのにと思ったことは少なくない。

ただし、ここで注意しなければならないのは、ネット歌会に「教える」行為が欠けているのは、歌歴の浅い者ばかりが寄り集まっているからではないということだ。仮にベテランが参加していても、上下関係から解放され、人間関係がフラットになってしまうインターネットの「場」では、ベテランも参加者のひとりでしかなくなってしまうのだ。ベテランも初心者も、年長者も年少者も、すべての者の発言が同じ重さ(軽さ)で流通してしまう。その結果、ベテランの意見も、「多様な意見の中のひとつ」というに過ぎなくなる可能性が高いのだ。ネット歌会に限らず、それがインターネットのあらゆる「場」に共通する特徴であり、長所とも短所ともいえる部分なのだと思う。

          (3)

次に、題詠マラソンについて報告したい。このイベントは、私自身の思いつきに端を発し、荻原裕幸氏の強力なサポートや、インターネット上の仲間の協力を得て実現したものだ。2003年に「題詠マラソン2003」として始まり、今年開催の「題詠マラソン2005」が3回目になる。その仕組みは以下の通り。

・事前に100の題を決めておく(参加者からの公募)。
・参加者は1つの題につき、題を詠み込んだ歌を1首詠む。
・歌ができたら、それをインターネット上の掲示板に投稿する(全員が同じ掲示板に投稿する)。
・100の題には「001:空」「002:安心」というふうに番号がふられており、必ず番号順に投稿しなければならない。
・投稿期間は3月~10月の8ヵ月間。
・無事に100首詠み終えたら「完走」となる。

題に合わせて100首もの歌を詠むのは大変な作業だが、遊び的な要素もあるためか、初年度から予想を超える参加者が集まっている。参加者の数は2003年が162人(完走者は121人)、2004年が375人(同231人)、2005年は563人。
ネット歌会が通常の歌会をそのままインターネットに持ち込んだものであるように、題詠マラソンも、たまに行われることがあるという100首詠の合宿などをヒントにしている。1日なり2日なりで100首詠むという試みと比べると、スピードの面ではとてもかなわないが、その分、時間をかけてじっくり取り組めるため、納得のいく歌を詠むことができる。期間が長いことで、時事詠の投稿が見られる点も挙げておきたい。2004年はイラク人質事件、アテネ五輪、台風の被害、中越地震などが題材になった。

また、インターネットのよさが発揮されている点として、投稿された歌を簡単に読めることがある。これについては、題詠マラソンの参加者でもある藤原龍一郎氏が「翔臨」第49号で以下のように書かれており、非常にわかりやすいので紹介したい。

もう一つ(筆者注:題詠マラソンのよさのもう一つは)、これがインターネットの最大の特徴だと思うが、検索機能を使って、今、特定の作者が何番まで進み、どんな作品を作っているかとか、自分が詠みあぐねている××の題で、他人はどのような歌を詠んでいるのか、すぐに確認できるということがある。結社の百首会で同じことを知ろうとすれば、一人一人に聞かなければならないし、実際そんなことをするのは、迷惑になるばかりである。しかし、検索機能は瞬時に、自分の知りたい情報をディスプレイに映し出してくれる。他人の作品を見れば、自分の想像力の硬直もほぐすことができるし、類想歌も事前にチェックすることができる。他人の作品が簡単に読めるという特性を生かして、参加者同士で返歌を交わす試みも見られた。

さらに、300人、400人もの人数が現実の場に集まるとなると、費用の面でも労力の面でも大変だが、インターネットならば費用の面では1円もかけずに実施できる。労力はそれなりにかかるが、おそらく現実の場合とは比較にならないだろう。

一方、題詠マラソンは歌を詠むばかりで、読む行為がないという批判もある。これは、私が題詠マラソンを発案した当時、並行してネット歌会も開いていたことから、「詠むほうは題詠マラソンで」「読むほうはネット歌会で」と分けて考えたことが大きいのだが、読む行為を企画に組み込みたいと考えていたとしても、参加者が予想よりも多くなったことで、おそらく実現は困難だっただろう。インターネット上とはいえ、300人、400人もの人間が集まり、3000首、4000首もの歌を読むための場づくりは、残念ながら実現の方法を思いつかない。その現状を踏まえれば、題詠マラソンに読みがないという批判があることは納得できる。

ただ、その欠点を補うように、参加者が自発的に、自分のホームページで感想を書く動きが広まっている。これは予想外の展開であり、とてもうれしいことだった。私自身も、こうした動きに刺激を受け、昨年は少人数で投稿歌の批評会を開いたり、題ごとの5首選を行ったりするなど、個人レベルで読むための場づくりを試みた。投稿される歌の数が多いだけに、十分とはいえないが、読みを試行する動きが見られることは報告しておきたい。

          (4)

こうして考えると、短歌の活動にインターネットを利用するには、インターネットの特性からくる「向き・不向き」があるようだ。作品の発表や人との交流、情報収集などには向いているが、読むことを含めた批評行為には不向きなのかもしれない。

しかし、冒頭で紹介したように、インターネット利用者には結社に所属する者も多く、所属していない者であっても、ネット以外ではいっさい活動していないという者はほとんどいない。再びアンケート結果を紹介すると、ネット歌会に参加したことのある者が64%であるのに対して、インターネット以外でも歌会に参加している者が43%、歌集の批評会やシンポジウムに参加している者が48%という数字になっている。

インターネットの利用者は、決してネットの世界しか知らないわけではない。それぞれの事情に合わせて、インターネットとそれ以外の場を使い分けていけばいいのではないだろうか。私自身も、「明日香」での活動とインターネットでの活動を、補完させ合うかたちで続けていきたいと思っている。

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「短歌とインターネットの関わりについて」は、結社誌「明日香」2005年11月号(創刊70周年特集号)に発表した文章。
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by noma-iga | 2005-11-24 19:05 | 評論
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