梨の実通信


五十嵐きよみの短歌ブログ。 ぼちぼちいってみたいと思います
by noma-iga
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ

「私探し」の時代における匿名性と私性(後半)

               (4)

 ところで、地下鉄サリン事件が起きた1995年には、別の出来事もニュースになっている。Windows95の発売である。Windows95はインターネットの利用に必要な機能を標準装備しており、これによって、インターネットの利用が急速に広まっていく。すでに指摘したように、インターネットの普及は、「私探し」や「私」の問題が浮上するのと時期的に重なっているわけだ。

 香山リカは著書『生きづらい私たち』(講談社現代新書)の中で、精神医学で「解離性障害」と呼ばれる症状に近い「解離的」な人々が急増していることを取り上げ、その理由の1つにインターネットとの関連を挙げている。「解離性障害」というのは、心の全部あるいは一部がまとまりを欠き、たくさんの自分がいて、どれが本当の自分なのかわからない状態にあることを指すらしい。そこまではいかないけれど、それに近いのが「解離的」な人々であり、まさに「私探し」の当事者といっていいだろう。




 「解離的」な人々が急増した理由のひとつとして、「インターネットの出現とともに、心そのものが解離のメカニズムを簡単に発動させるように変わった」のではないかと香山は指摘する。先に、ハンドルネームの使用率に関して、インターネット上のアンケート結果を紹介したが、このアンケートでは、2つ以上のハンドルネームを使用している者が約5割、ネット人格(インターネット利用時の人格の変化)を自覚している者が約2割いるという結果も出ている。香山もこの結果を取り上げ、解離的な人々の増加が、インターネットの普及と並行して起きていることに言及する。「これまでは地理的・身体的・社会的制約により抑圧されていた多重化(筆者注:人格の多重化)への欲望が、コンピュータやネットの出現でその封印を解かれた」というのだ。

 解離的な症状との因果関係はさておき、インターネットの利用によって地理的・身体的・社会的制約から解放されることで、実際とは違う「私」、複数の「私」を使い分ける層がいるという事実は見逃せない。つまり、インターネットにおける匿名性の問題とは、単に本名を伏せるというにとどまらず、いともたやすく別人になりうること、実際に別人になる者が存在することをも指すのだろう。

 しかし、一方で、インターネットはまったく匿名ではない、とする意見もある。批評家の東浩紀は、社会学者・大澤真幸との対談集『自由を考える――9・11以降の現代思想』(NHKブックス)において、むしろ携帯電話やインターネットが普及する前のほうが、人は匿名でいられたと述べている。なぜなら、携帯電話やインターネットは、通話記録や位置情報、アクセスログによって、個人の行動が記録に残されるからだ。

 これに対して、たとえば都会の雑踏の中を歩いている人間は、携帯電話を使用したり、クレジットカードで支払いをしたりしない限り、群集の中の名もないひとりとして、どこまでも匿名でいられる。つまり、インターネットも携帯電話もクレジットカードもなかった時代には、「私」は無意識のうちに匿名で行動することが可能だったというわけである。

 さらに興味深いのは、こうした現状に対する、東の次のような指摘である。

今まで匿名性というのは、社会空間の複雑さと情報の追跡可能性がアンバランスであるがために、特に意識しないでも確保されていた。だからこそ固有名の感覚も生まれていた。しかし、後者の精度が飛躍的に上がってしまったため、今そのバランスが壊れている。その結果、誤配可能性の量(なるものが計算できるとして)がきわめて低くなり、人々は自分が固有の存在だと信じられなくなっている。僕はその状況を憂えているわけです。


 この指摘は一見、先の香山の見解と相反するもののように思える。香山のほうは、インターネットの普及によって、人がそれまでの制約から解放されたとしているのに対して、東のほうは、無意識のうちに確保できていた匿名性が失われ、人が自分を固有の存在だと信じられなくなったとしているからだ。

 しかし、両者の見解は、実はそれほど大きく隔たっているわけではないのではないか。結局のところ、両者が指摘しているのは、どちらも「生きにくい私たち」の現状であるからだ。「私たち」は現在、さまざまな場面で個人を特定され、無意識のうちに息苦しさや閉塞感を覚えている。そのストレスを発散するために、インターネット上で「匿名」になって行動するものの、実はその行為も記録され、「私たち」は見えないネットワークにさらに縛られることになる。つまり、香山と東の指摘は、皮肉なパラドックスとして両立する。

 重要なのは、これは決してインターネット利用者だけの問題ではないということだ。IT技術は生活のあらゆる面にわたって浸透しつつあり、個人を特定されやすい現在の環境と誰しもまったく無縁でいることはできない。このように考えると、「ネット短歌」として扱われることが多い「私」の姿の曖昧な歌が、必ずしもインターネットの利用と直接関係していないことも頷ける。

 つまり、短歌における「私」が匿名性を強め、明確な輪郭を持たなくなってきたのは、こういうことではないか。かつて「大きな物語」が存在していた頃には、人はたやすく匿名でいられたし、匿名でいるしかなかった。個人の存在は埋没しやすく、それゆえに、自我の存在証明として唯一無二の「私」を歌に託すことができ、託すことに意味があった。ところが、「大きな物語」の解体後は、社会と関係性づけて「私」を捉えることが難しくなり、人はきわめて個人的な、いわば「小さな物語」をささやかに生きるしかなくなった。「小さな物語」の中においては、明確な「私」を詠うことはかつてのような意味を持たず、歌いたいという切実な欲求もそがれている。さらにいえば、あらゆる場面で「私」が記録される社会に、無防備に個人情報を露出することにつながりかねないという側面も持っている。明確な「私」を詠うことは、無数の「小さな物語」が乱立する時代においては感覚に合わない行為なのである。

 一方、読み手の側に立てば、抽象的な「私」の歌ほど自己投影しやすく、感覚的に共鳴しやすい。現在は世界に向かって反戦を叫ぶより、しばしば引き合いに出される例を借りれば、抽象的な愛をさけぶ行為のほうが共感を呼ぶのである。

               (5)

 このように、短歌に詠まれる「私」は、時代の流れの中で抽象化し、匿名性を強めている。近代に誕生した「近代的自我」に対して、混迷を深めるポストモダンにふさわしい「新しい私」が登場しているのである。こうした現実を前提にして、「ネット短歌」としてくくられる歌に目を向けると、いわゆる「ネット短歌」の真の問題点が浮かび上がってくる。


そこにいるときすこしさみしそうなとき
めをつむる。あまい。そこにいたとき   今橋愛
たすけて枝毛ねえさんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔   飯田有子


 先に引用した『短歌、WWWを走る。』の収録歌と異なり、これらの歌はインターネットが初出ではない。また、これらの作者はインターネットで積極的に活動しているというわけではなく、インターネット利用者から「ネット歌人」であるとも認識されてい(注2)ない。それにもかかわらず、「ネット短歌」として扱われるのは、これらの歌の主体が、いま見たばかりの「新しい私」と重なるからだろう。「主体のあり方が~な歌」などと説明しているより、ひとことで「ネット短歌」といってしまえば、話が早いという面はある。

 しかし、インターネットと直接の関係がないのに「ネット短歌」としてくくっていると、「私」に対する問題を見逃してしまう恐れがあるのではないか。「ネット短歌」という呼称でひとまとめにし、「新しい私」が詠われるのはインターネットという特殊な世界の中だけのことのように扱っているうちに、インターネットの中でも外でも「新しい私」は浸透してしまうのではないか。実際、インターネットの普及以降、良くも悪くも「ネット短歌」ばかりが話題に上り、前掲「短歌年鑑」で篠弘が総括したような「私」の問題についての議論は一歩下がってしまった感がある。いわゆる「ネット短歌」の真の問題が、インターネットそのものではなく「新しい私」にあるとしたら、これは危険なことだろう。

 これに関しては、「短歌研究」2005年2月号の時評において、矢部雅之が興味深い指摘をしている。矢部は、「短歌年鑑」2005年版の座談会における出席者の「ネット短歌」論議に疑義を唱え、特に島田修三の発言「ただ加藤治郎君とか、荻原裕幸君とか、東直子さんとか、飯田有子さんとか何人か、両刀使い(筆者注・活字短歌とネット短歌の両刀使い)がいて、それがかろうじてパイプのような存在になっている」に対して、次のように反論している。

「ネット短歌」とされる作品群の作者達には「活字短歌」に対立する企図など実は希薄なのではないか。(改行略)では、島田氏を始めとする既存の歌壇に本当に対立しようとしているのは誰なのか。それは他ならぬ、島田氏が「パイプ役」として名前を挙げた人々だろう。彼らは「ネット短歌」とされる歌を称揚し、短歌批評・解釈の新戦略を既成歌壇につきつけることで、その秩序をゆるがし、既成の短歌史観の流れを変えて、短歌史の中に居場所を確保しようとしているのだ。


 矢部のいうところの「短歌批評・解釈の新戦略」が、「私」にまつわることかどうかは明らかでないが、文中で名前の挙がった荻原が、「ネット短歌」について次のように発言しているのは注目に値する。荻原自身が責任編集をつとめる季刊誌「短歌ヴァーサス」第6号において、「ネット短歌はだめなのか」という特集が組まれ、自ら出席した吉川宏志との対談「リアルな<歌>のありか」においてこう語っているのだ。

荻原 インターネットという場所は、制約がない分だけ、新しい読みのコードを論理化するのにいい場所じゃないかと思うんだけど。既成のメディアではやりにくいじゃない。結社ってどうしても縛られるんじゃないでしょうか。


 なぜ新しい読みのコードが必要かといえば、従来の読みのコードでは読み解けない歌が登場したからにほかならない。つまり、対談のテーマとして取り上げられている「ネット短歌」、言葉を換えると、この文章で述べている「新しい私」の歌こそが、新しい読みのコードを必要としているのである。

 このような捉え方は、あるいは恣意的にすぎているかもしれないが、少なくとも荻原のインターネットとの関わり方が、単なる「橋渡し」を目的とした程度のものとは思えないことは事実である。加藤治郎、穂村弘とともに「SS-PROJECT」を名乗り、メーリングリスト「ラエティティア」を結成したり、短歌関係の総合リンク集といえる「電脳短歌イエローページ」を開設したり、オンデマンド出版「歌葉叢書」の刊行、インターネット上の新人賞「歌葉新人賞」の創設、さらには約30にも及ぶ電子掲示板を管理するなど、荻原の活動量の多さには驚かされる。何らかの明確な目的をもって行っていると考えなければ、とうてい説明がつかないのである。

 また、いわゆる「ネット短歌」の作者が、SS-PROJECTの3人、つまり荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘と浅からず関わっていることも見逃せない。今橋愛、飯田有子のほか、盛田志保子、ひぐらしひなつ、斉藤斎藤といった作者は、SS-PROJECTの全員またはいずれかの選を受けて登場したり、SS-PROJECTのプロデュースを受けて歌集を刊行したりしている顔ぶればかりなのである。

 つまり、荻原たち三人は、「新しい私」を主体とした歌を推進し、かつ、それらの歌を読むにふさわしい読みのコードを確立しようとしているのだ。矢部のいう「既成の短歌史観の流れを変えて、短歌史の中に居場所を確保しようとしている」という指摘は、決して大袈裟なものではない。

 ただ、このような「新しい私」の登場を肯定的に捉えるべきかどうかは、個人的には決めかねる面も大きい。私は荻原たちと同世代だが、「新しい私」を自然に受け入れる素地があるかどうかは、おそらくこの世代を境に分かれており、その中でも個人差が大きいと実感することが多いからだ。たとえば、1960年生まれで私と1歳違いの香山リカは、80年代にポストモダンに傾倒し、当時のサブカルチャーを謳歌したと記している。しかし、私自身は80年代をどこか異世界のようにも感じていた。なぜなら、「大きな物語」をかろうじて信じることのできた70年代を基準にすると、80年代はあまりにも急激に時代が変わってしまったからだ。「はざまの世代」とか「皇太子世代」とか呼ばれるこの世代は、「大きな物語」を信じることのできた最後の世代であり、一方では、「小さな物語」をごく自然に受け入れることのできる最初の世代でもあるということなのだろう。

 しかし、「新しい私」に対する評価をひとまず留保しながら、このようにも考える。近代短歌は、自立的な主体としての「私」を獲得することで、形骸化していた伝統和歌の世界から脱し、近代という時代に合った文学として再出発した。それから100年を経て、近代的価値観がさまざまな面で機能しなくなった今もなお「近代的自我」に固執することは、時代に合わないスタイルに固執するという意味で、やはり短歌の形骸化につながりかねないのではないか。

 「私探し」という言葉自体は、あるいは流行語のようにいずれ消え去るのかもしれないが、短歌の主体としての「新しい私」は、今後も勢力を伸ばしていくに違いない。なぜなら、「大きな物語」を信頼できた世代にとって、近代的自我としての「私」を短歌の一人称に据えるのが自明のことであるように、「小さな物語」を生きる世代にとっては、「新しい私」のほうがおそらく自然な「私」の姿であり、世代というものは、いつの世にもいずれ交代するものだからだ。
「新しい私」とどう対峙していくのか。現代短歌は今、大きな岐路に立たされている。(了)



注1
国連社が2002年1月に、インターネット上の女性向けホームページを通じて行ったアンケート調査。回答者は4345人(男性約3割、女性約7割)。ただ、現在は国連社のホームページから結果を見ることができないため、この文章では、アンケート結果を記事にした読売新聞(20002年3月18日)や、インターネット上に発表された個人の論文から、アンケート結果の数字を引用した。

注2
筆者がインターネット上で実施した「ネット短歌アンケート」の結果による。このアンケート調査は現在も継続して実施中で、集計結果だけを以下のURLで見ることもできる。
http://www.supreme.co.jp/cfm/ask3/preview.cfm?nID=708545698&P=102583318
ただし、当該質問「Q13:あなたがネット歌人だと考える人がいたら、その名前を教えてください(できれば3人以内)」についてのみ、以下のURLで結果を発表している。
http://www.sweetswan.com/igarashi/bbs.cgi

--------------------

「『私探し』の時代における匿名性と私性」は、短歌研究社主催の第23回現代短歌評論賞(2005年)の応募作。今回の課題は「歌人の登場、或いは歌人の退場、と歌壇の変容について」。短歌研究10月号誌上で結果発表があり、候補作の1つに選ばれる。
[PR]
by noma-iga | 2005-09-23 12:52 | 評論
<< 「私探し」の時代における匿名性...


ライフログ
最新のトラックバック
083拝(帯一 鐘信)
from ダイコン短歌野郎 ~とりあえ..
ドミンゴ
from 自動車-情報局
題詠マラソン2005(7..
from 気まぐれ徒然かすみ草
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧